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上山温泉の発祥

今から約550年前→長祿2年、一人の旅僧が 経塚山南麓にある法界寺と云う寺に辿りつきました。
ここは、現在当旅館の開墾地の上がり口であります。この寺に足を留めた僧は二十歳の頃から生国を出て、
諸国を行脚して、南の果て九州から北の国みちのくまで来られるのに、四十年余りの長井歳月を費やして
上山に辿りつきました時は六十歳の老僧でありました。

当時の上山は、樹木がうっそうと茂り湯町一帯は、沼澤地帯でありました。
上人は或日た巡銭「タクハツ」に出てこの沼のほとりをとおりました。すると、一羽の足を痛めた鶴がとんで来て
沼の水際に足を浸しました。それが、七日もつづき傷が治って飛び去りました。

余りの不思議さに上人が其の所に行って見ますと、此所から温かい温泉が湧いておりました。
これが、かみのやま温泉の発見であります。

温泉は、鶴に因んで鶴脛(つるはぎ)の湯町と名付けられました。

新湯の発見

大正年間九年の頃、この新湯一帯は月岡城が幕府に依って破城された時以来、空壕となって
荒れ果て大小の石がゴロゴロ転がって葦や雑草が一面に生え茂り全くのヤブカラでありました。

初代村尾要助が趣味の鉄砲打ちに通う路すじがこの一帯でありました。雪深いこの一帯にいつも雪が積もらず
湯気が立っている個所がありました。それに目をつけた初代は、此処に必ず温泉が出ると確信して
温泉掘鑿を決心しました。初代村尾要助は、元々糸を商いとした人であります。大正九年、上総堀り「足踏み機械」を
持ってはじめました。三十五〜三十六米(メートル)掘り進んだ所で大岩石に突き当たり、
それ以上掘り進むことが出来なくなり別の場所に替えて掘りました。が、又々失敗しました。

此の頃二日町の武田利兵衛と云う人も温泉掘鑿をしようと上手の方にボーリングを始めましたが
大正十年三月深度九十六米に達し、摂氏52度の湧出を見、つづいて二回目のボーリングをその脇の方に始め、
同年七月には、深度一○三米で60度の湧出を見ました。この様にボーリングをはじめて二・三ヶ月位で
湧出を見たのに一方温泉掘鑿の先弁をつけた初代要助は二年に渡り三・四回も場所を替えてボーリングを
つづけ長い間の投資に至って経済的にも又精神的にも非常に疲幣しました。

然し、彼は実に意志の人でした。尚も堅忍不抜の精神を以って掘りすすんだのであります。

この時、多量の新湯湧出を見た旧湯組合は、乱掘りに依る旧湯の減湯を恐れ、その筋え懇願した為
初代は、県庁より掘鑿中止の命令を受ける悲運を見たのであります。然し多勢の人は、先覚者である彼を
悲運のままにするのを遺憾な事だと、衆人の力で彼の目的を貫徹させ様と二日町代表五十嵐平次郎氏
佐藤治助氏等に依って矢来→初代夫妻は当時矢来に住んでおりました。上山南方面の調印を受け、
再掘鑿の請願書を提出し、この運動に努めたのであります。この誠意が通じまして、県に起きましては
村尾に限り一本だけ温泉の湧出するまで掘鑿を許可したのであります。


村尾旅館の誕生

県からの掘鑿許可がおり、三年間に五箇所をボーリングし、大正十一年三月四日、、
深度一○四米に達し摂氏64度の温泉が湧出し、湯量も一分間湧出量四寸五升となりました。
さらに、三月十六日には一六一.七米に至り俄然湧出量を増し、一分間六寸五升、
温度66度を示し新湯の中での最高温度最多量の湧出量となりました。

尚、かみのやま温泉の質は、含石膏塩類泉で、カルシウムと塩分が含まれております。

初代村尾要助、千代夫妻は、多難を克服し最初の信念をつらぬきました。そして、今度は、温泉旅館経営に
着手いたしました。木造建築三階建客室十二室で始まった当館開業当時の夫妻の苦労は
大変なものでした。長年に至る掘鑿投資に依って経済状態は、疲幣しきっておりました。
温泉の湧出を見ても建築にかかるまでの夫妻の苦労努力は今に語り草となっております。

昭和三年、商売は順調に繁昌を見、別館を増築するまでになりました。当時の旅館建築の常識としては
毎日使用しない様な講堂等を造る事は馬鹿げた事だと哄はれたものでした。然し、初代の考えでは
旅館で会議をし、慰安をすると云う合理性がこれから先の旅館には必要な時世になると考えました。
そして、百人以上のまとまった客を収容できる宴会場、会議の出来る会議室を造りました。それは、
最初に官庁関係、国鉄関係の会議に親睦に大変役に立ちました。

それから、昭和十年には三番目の増築離れ荘が建ちました。この建築は大変に吟味された建築なので
高貴な方のお趣しをいただいても恥ずかしくないものです。そして、戦災で昔ながらの建築が
少なくなっている現在では、この建築は大変貴重な存在となりました。

また、今では旅館中での名園と賞される旧離の庭園は山を愛した初代の創作になるものです。
松も石も若い頃、糸商として田舎を「マユ」買いに歩いた彼の目に焼きついている自然への愛情から
生まれた親しいものばかり、荒山を開墾し、段々に植えた一尺位の赤松の苗木に十年後、
二十年後の姿を有々と心に描いた初代村尾要助、千代夫妻でありました。これが現在の庭園の姿です。

この庭園が出来ました昭和の初期から、そろそろ世界の状勢がけわしくなりました。当時の日本は男性の
宮様方は殆ど陸、海軍に関係なされておりましたので、地方への御視察、御慰問と往来がはげしくなりました。
当館は、その都度御宿舎としての御使命を頂き初代夫妻の感激は大きなものでございました。

その間また初代は町会議員議長、市会議員として、町政、市政に尽力し全国町村議長会長の名誉職にもつき
市の観光事業には全く情熱をそそぎました。


上山の観光発展へ

◎春雨庵の設立 ◎かみのやま温泉五〇〇年祭 ◎上山新名物 菊祭り

初代村尾要助は、私費を投じて上山の観光発展に懸命になりました。山を自動車で歩く→「初代の表現ですが」
と云う初代の夢は、エコーラインになって現れました。金山峠を越えて白石を結び福島に通じ太平洋の新鮮な魚を
今日の食卓にのせる夢、アイディアはみな上山を観光地として立派なものにしたい初代の希いから生まれたものでした。

上山市としての昇格、上山駅の改造、小泉川河泉改修等にどれだけの苦労と熱意を持って当たったことでしょう。
これ等の発展の為には最後の生命の瞬間まで情熱を注ぎました。十三号線、新湯道路の完成を見ずに逝った初代は
病床のうわ言にその事を口に出しながら永い眠りに付きました。


 
大正11年
温泉湧出 (3月4日)  
 
大正13年
個人経営で 旅館創立  
 
昭和 7年
別館 延500坪 建設
大広間 中広間 会議室 客室11室
 
 
昭和12年
離れ荘 延160坪 建設
5棟 5部屋
 
 
昭和21年
本館 延652坪 建設
玄関 管理関係 厨房 客室21室
 
 
昭和27年
法人成 有限会社 村尾旅館 (12月28日)  
 
昭和35年
政府登録基準に合わせるべく、本館改装  
 
昭和36年
新離れ荘 5室 建設
12月 政府登録 322号となる
 
 
昭和38年
本館 3,4階 改装
新館 延740坪 建設
地下1階 地上6階 宴会場 厨房 客室 30室
 
 
昭和47年
玄関の改装を行なう  
 
昭和48年
厨房の移転 ラウンジに改装  
 
昭和52年
東館 36室 コンベンションホール 大広間 大浴場 増築  
 
昭和62年
相互ビルディング(株) 傘下に入る  
 
平成 3年
相和観光(株)になる  
 
平成15年
ホテル王将グループになる  
 
平成16年
「ニュー村尾浪漫館」と改称、ロビー棟増築  

 

 


新春の間

末広の間

観月の間

一楽の間

千鳥の間

浪漫館


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